13世紀の初め

皇帝フリードリヒ バルバロッサが1180年伯爵オットー・フォン・ヴィッテルスバッハに公爵領バイエルンを封土として与えました。オットーは僅か3年治めただけで1183年に死に、息子の公爵ケールハイムのルートヴィヒ が1204年に城と町をランツフートに造ったところからこの町の歴史が始まります。彼は1231年ケールハイムで殺され、息子のエアラウホト(帝国領を治 める貴族の称号)を持つ公爵オットーII世が1231年から1253年まで治め、この時にランツフートがバイエルンの唯一の首府となりました。

ところがオットーII世には息子が二人いて、1253年に相続が行われましたが、彼らは仲違いし、1255年バイエルンを分割して、年下の公爵ハインリヒ13世が下バイエルンの首都となったランツフートに残り、兄 の公爵「気難し屋」のルートヴィヒ2世はミュンヘンに行き、上バイエルンを統治しました。そういう訳でミュンヘンはランツフートの分身だったのです。

バイエルンを拝領したころヴィッテルスバッハ家は他の貴族と大差ない一地方貴族に過ぎませんでした。なぜヴィッテルスバッッハ家は大きくなったか? は別項に譲るとして、1204年からの町の建設にはユダヤ人も動員されました。町の最初に出来た部分にユダヤ人小路とシナゴーグがありましたが、後に道路の舗装が行われ、中世的な狭さが特徴だった町を整備する際に取り壊されました。

その後アルトシュタットの拡張が行われ、ノイシュタットが造られ、1338年にフライユングが造られてランツフートの町はほぼ完成したのです。ただ当時の建物は煉瓦造りで、現在のような色とりどりのファッサードが付けられたのは17世紀になってからです。                                 (ホームに戻る)