ナポレオンとランツフート

ナポレオンが最初にランツフートに現れたのは1805年12月30日です。 ナポレオンに対抗してオーストリア-英国-ロシアが同盟を組み、オーストリアとナポレオンとの両方から同盟を迫られたバイエルンは板挟みになって、マック ス・ヨーゼフはミュンヘンからヴュルツブルクに引っ越したりしますが1805年9月28日とうとうナポレオンと同盟を組みます。ナポレオンは10月6日から バイエルンに入り、ウルムを開城させたあとオーストリアに向い、ナポレオンがアウステルリッツでオーストリア軍に勝って休戦協定を結び、パッサウからイー ザル川沿いにミュンヘンに向かう途中ランツフートを通過したのでした。バイエルン軍もこの闘いに参加して100年ぶりの勝利を味わったので、町々ではナポ レオン万歳の大歓迎でした。

その後1809年またもオーストリア軍はバイエルンに攻め込み、4月20日のアーベンスベルクの会戦、翌21日にはランツフートの会戦 (9/7)がありました。その時オーストリア軍はイーザル川に架かる橋に火を付けて南に退却しましたが、町全体の損傷は少なかったようです。翌22日にはエッグミュールの会戦、23日にはレーゲンスブルクに籠ったオーストリア軍をナポレオン軍が攻撃 (9/7)、町は炎上して多くの建物が焼けました。ナポレオンは4月21日と4月26日にランツフートのレジデンツに泊まりました。このあとナポレオンはブルクハウゼンを通ってオーストリアのブラウナウのほうに向かいます。

ナポレオンは将来国王になる反ナポレオンの公子ルートヴィヒをなんとか味方に付けたかったのか、あるいは彼が好きだったのかは判りませんが、アウス テルリッツの闘いのあとロシア-オーストリア連合軍の配置に対するナポレオンの作戦を解説したり、1806年にはルードヴィヒをパリに招待して自ら案内し たりしています。でも結局ルートヴィヒのナポレオン嫌いは変わりませんでした。                (ホームに戻る)