ランツフートの戦い 1809年4月21日

(1) オーストリアのバイエルン侵攻 (1809年4月10日) 
セントヘレナでナポレオンが回顧したように、ナポレオンの没落の始まりはスペイン出兵でした。スペインはフランスの同盟国だったのに大陸体制にもっと しっかり組み込もうとしてナポレオンはスペインに兵を出し、スペイン国王を退位させ(1805年5月)、長兄のジョゼフを国王に据えたのがそもそもの間違 いのもとで、これがスペイン人の誇りと熱烈な信仰心によるパルチザン活動を激化させ、その機会を逃さず英国遠征軍がスペインに上陸してフランス軍はこの両 者で石臼で擦り潰されるように大敗を喫しました(1808年夏))。こうなるとナポレオン自身が乗り出さない訳には行きません。180811月ナポレオン は大軍を率いてスペインに向かいます。流石はナポレオン、1809年2月にはスペイン軍は敗走、英国軍は船に追い払われ、半島の大部分はふたたびナポレオ ンの支配化に戻ります。しかし、これでナポレオンは80,000人近くを失い、250,000人のうち半分近くのフランス兵がスペインに固定されることに なり、大陸が手薄になってしまいました。
オーストリアはドイツ統一を餌にしたビラをばら撒いてドイツ内の反フランスの空気を煽りますが、あまり成功しませんでした。着々と軍備の近代化を図った オーストリアはこの機を逃さずドイツに攻め込もうとします。バイエルンは依然としてフランスと同盟を結んでおり、ナポレオンの作ったライン連邦軍と力を合 せてオーストリアに対抗します。バイエルンの中にはナポレオンが勝ったら、ライン連邦を全ドイツに拡大してドイツ統一を勝ち取ろうという虫のよいプロパガ ンダをする人もいました。ナポレオンのためにバイエルンに入れられてしまったフランケンでは反バイエルンの空気が強く、オーストリア軍が入ってきたとき、 役人は抵抗しろと言い、市民は市の門を開けてオーストリア軍を迎え入れるなど内情は複雑でした。オーストリアはプロイセンに参戦するよう薦めましたが、プ ロイセンは断ります。
ナポレオンはフランス軍の強化を図りますが、新兵集めも2年も先食いしている有様で、これを訓練して兵力にするためには時間稼ぎが必要でした。4月10日 にいよいよカール大公のもとオーストリア軍が進攻を開始しますが、ナポレオン軍と違って何事も遅く、これが逆に主軍がどこにいるか判らないという形でオー ストリア軍に幸いします。オーストリア軍の進攻開始は2日後にはパリにいたナポレオンに知らされますが、この早さはウルムからストラスブールを経てパリ まで設けられた有視界通信によるものだということです。天候に左右されるということですから狼煙のようなものでしょうか。ここでフランス軍に不運が重なり ます。ナポレオンの命令がオーストリア軍の進攻開始が4月15日より前の場合はレーゲンスブルクに集結、15日以後の場合にはアウクスブルクとドーナウヴェ ルトの間に集結するように分けて出ていたにも関わらず、ことばの綾で司令部に誤解が出たこと、命令の到着が遅れて古い命令が皇帝の命令ということで守られてしまったこと、さらにはオーストリア軍が近づくにつれてベルティエ司令官が神経耗弱になって矛盾する命令を連発したため軍隊が右往左往し、ナポレオンがパリから17日にドナウヴェルトに到着したときには戦列が滅茶苦茶になっていました。オーストリアの主軍はレーゲンスブルクに留まるように命令され、し かもドーナウ川の南にいたダヴーの軍とその他のナポレオン軍の間に割って入り、ダヴーの軍はこの主軍とボヘミアから来た、北西から迫るベルギャルドの軍とに 挟まれて殲滅を待つばかりとなりました。
(2)1809年4月17日朝ドーナウヴェルトに到着したナポレオンはベルティエがやらかしたことに直ぐに気がついて、即刻ダヴー、ルフェーヴル、マッセナ の各将軍宛に命令書を書きました。当初考えたようにレヒ川に集結させるのはもう無理なので、インゴシュタット近くのイルム川に集結させることにしました。 17日の夜到着した報告によってナポレオンは初めてダヴーが直面している危機に気がつきました。しかしこの分断されている状態を利用して逆に相手を殲滅し ようと考えるところがナポレオンの凄いところです。カール大公がこれから北に向かって進軍すればフランス・バイエルン同盟軍に側面を曝すことになるに違い ない。そこにインゴルシュタット近辺の全兵力を投入してぶち破ろうというわけです。さらにナポレオンはイーザル川を渡る敵の退路を断つため、マッセナには プファッフェンホフェンからモースブルクに兵を進めさせます。もちろんオーストリア軍は側面を援護するために3兵団を当てますが、具体的な戦闘指示は出ていませんでした。ダヴーは4月19日早朝2,000人を残し背後のコロヴラートに備えさせていよいよ4つの隊でレーゲンスブルクを離れます。ダヴーの軍勢は途 中に残しておいた隊も入れて43,000人、ケーフェリング、アップバッハ、ザール、タン(ヘルンヴァールタン)の間の森と山地の厳しい隘路を通っている ときに遂にオーストリア軍に遭遇します。カール大公にとって70,000人の圧倒的な軍勢でダヴー軍をドナウ川に追い落とす絶好の機会になる筈でした。と ころが、大公は側面防護に必要以上の兵を割き、さらにほかにも無駄使いをしていたので、真剣にダヴー軍と戦えたのはただの25,000人でした。激しい戦 闘のあと猛烈な雷のためこの日の戦いはお終いになり、フランス軍の死傷者は4,000人、オーストリア側は5,000人でした。ダヴーのまことに危うい状況を考えれば、戦果は明らかにフランス側にあったと言えます。そして遂にアーベンスベルクの北側にいたバイエルン軍の左翼に連絡できます。20日のナポレ オンの作戦はダヴーがアップバッハとザールの間で正面の敵を引き付けておき、バイエルン軍の新軍はフランス軍に合流してルフェーヴル、ヴァンダムとともに オーストリア軍の左翼を側面から攻撃する。ウディノの14,000人はナポレオン主軍の60,000人に加わる。マッセナはモースブルクを経てランツフー トに進軍する、というものでした。4月20日朝ナポレオンはアーベンスベルクのバイエルン軍まで行って激励します。フランス語を良くする皇太子が通訳を勤めている様子が 絵に残されています。それからいよいよアーベンスベルクの会戦が始まります。ナポレオンは現在「ナポレオンの丘」と呼ばれている高みから戦況を見守りま す。バイエルン軍とフランス軍の側面攻撃によってオーストリア軍の左翼とその他の軍団との間に楔が深く打ち込まれ、その左翼はナポレオンの主軍に撃破され て、混乱したままランツフートに向けて後退が始まります。ヴレデはしつこく午前2時まで攻撃してとうとうプフェッフェンハウゼンから敵を追い払います。オース トリア軍の死傷者は2,700人、捕虜4,000人、大砲12門、軍旗8竿が戦利品で、フランス軍の損害は数100人、会戦というよりはむしろ狩のような戦闘でした。ところがナポレオンはオーストリアの主軍も後退したと誤解をしますが、主軍は依然としてレーゲンスブルクの奪取を目指していました。リヒテン シュタインの軍が南から現れて20日の夜レーゲンスブルクの守備隊は弾薬を打ち尽くしたあと降伏し、オーストリア軍はドナウの橋を確保したので、これで主 軍とコロヴラートおよびベルギャルドの軍は合流が可能となったのに、不可解なことにカール大公はそうしませんでした。21日も同様で、癲癇の発作に見舞わ れていたからだという説もあります。リヒテンシュタインはダヴーの左翼を攻めるため南に転じましたが、例の隘路で阻止されてしまい、ダヴーは大部分の隊を ローゼンベルクとホーエンツォルレン軍に対させることができ、そこにルフェーヴルの軍団が合流しました。この時点で合流勢力は38,000人、これに対し て大公は優に2倍の軍勢を当てることができたはずなのに、リヒテンシュタインには詰まらない小競り合いに時間を費やさせ、コロヴラートをドナウの左岸でそのままにしておき、ホーエンツォルレン軍は事実上消滅してしまっていたので、真剣に戦えたのは30,000人にも満たなかったのです。戦いの負担はローゼ ンベルクの軍団に掛かりました。やがて激しい戦闘も日没のため終わりました。ダヴー軍の死傷者は2,000人、オーストリア軍は3,000人以上でした。

ところで4月21日同盟軍の最右翼はどんどん追撃してヴレデは夜明けにはペトラッハに達し、さらに敵をランツフートの方に追いやりました。ナポレオンはエ アゴルディングの北の高台に現れ、そこから攻撃を行わせました。アルトドルフとエアゴルディングの間の平地で激戦が行われましたが、やがてバイエルン軍が 優位に立ち、オーストリア軍を市外のゼーリゲンタールまで追撃します。ここで大砲11門を戦利品とし、本人たちの協力を得て、大砲を逆の方に向け、混乱し てイーザル川橋を渡って逃げるオーストリア軍に向かって撃たせます。オーストリア軍は橋に火を放ち始めますが、ムートン将軍が第17連隊の1大隊を率いて 橋に突入し、ヴュルテンベルク軍とバイエルン軍がそれに続きます。オーストリア側は大部分の隊がフィルスビブルクに向かって敗走し、一部の小隊が市街で抵 抗しますがやがて鎮圧されて4月21日のランツフートの戦いは午後早くに終わります。ここでも撃破というよりは追撃であり、オーストリア軍の損害は死傷者 3,000人、捕虜と行方不明6,000人、ナポレオン側の損害は合計で1,500人、大砲30門、車両600 台、架橋車両3台が戦利品でした。オーストリアにとってまだ幸いだったのはマッセナの軍が48時間で100 km以上も移動したにもかかわらず、ランツフートの戦いの間に合わず、マッセナの軍のなかにオーストリア軍を追い込んで殲滅するというナポレオンの作戦が 実現しなかったことでした。 (マルクス・ユンケルマン「ナポレオンとバイエルン」より)                     (ホームに戻る)