現在ロックル塔と呼ばれている塔はこの門の左の方にある。

 

市民の反乱

1408 年公爵ハインリヒは市民約40人を城に招き、そこで監禁、脅迫して土地、屋敷を没収した上、復讐しないという誓約をさせ、挙げ句に町から追放しました。2年後の1410年反乱が起こり城にも一部押し寄せましたが結局鎮圧され、首や手足をちょん切るという過酷な刑罰で報いられたのです。19世紀に入って多くの人がこの事件を研究しましたが、公爵の側に立つ見解と市民側に立つ見解に分かれ、さらには伝説やいろいろの伝聞記録があって何が本当なの か判りにくくなっています。背景として市民がだんだん栄えて土地や家作をあちこちに持つようになる一方で、公爵のほうは万年赤字で、なんとかする必要が あったことは事実です。また、父親のフリードリヒがあまりにも多くの特権を市民に認めたためハ インリヒは不満に思っていた、ということもあります。公爵を 弁護する論として、幼いハインリヒのそばにいる貴族達が浪費をし、市民がそれを止めさせようとしたので、貴族達が逆に彼らを捕らえさせた、というのもあり ますが、当時ハインリヒはもう成年に達していたので、作られた嘘であることは間違いありません。伝説としては、追放された参事会員のロックルの妻がお城の者と不貞を働き、彼らが集まって相談をしていることを漏らしたため、踏み込ま れ、現在ロックル塔と名が付いている塔に監禁された、というのがあります。ロックルが市外から戻ろうとして使った市の壁に付いていた塔は既に壊されて無く なっており、残っている別の塔がロックル塔と呼ばれています。いずれにせよ、ハインリヒのこの事件はあまりにもショッキングだったため、近隣にも多くの伝 聞の記録を残すことになりました。   (ホームに戻る)