遺産継承戦争

1503年ゲオルク富候は亡くなりましたが息子二人が既に亡くなっていたため娘エリザベトの婿ルップレヒトに後を継がせようとしたことからミュンヘンとの間に戦争が始まりました。これはヴィッテルスバッハ家の家訓に反することだったからです(なぜヴィッテルスバッハ家は大きくなったか参照)。当時バイエルン-ランツフートの方が大きく強かったので、ミュンヘンはオーストリアに加勢を頼みました。1504年8月20日ルップレヒトは赤痢で死に、エリザベトも9月15日に死んでしまって戦争は終わり、バイエルン-ランツフートはミュンヘンに統合されました。公爵アルブレヒト四世はこれに懲 りて1506年「長子継承権」を発布。しかしアルブレヒト四世の次男のルードヴィヒ十世はこの法は自分が生まれてから出来た物だから自分には適用されな い、と主張して兄のヴィルヘルムから共同統治することを勝ち取り、1516年からランツフートで下バイエルンの独立した君主として1545年に独身のまま 死ぬまで統治しました。

ところでオーストリアはミュンヘンに加勢した代償としてイン川地方とクーフシュタインを取りました。クーフシュタインには銀山があったからです。                                 (ホームに戻る)