ベッティーナ・アルニム   カール・フォン・サヴィニ    ペレアト・グラス

(旧姓ブレンターノ)      (1779 - 1861)  

(1785 - 1859) 

 

ゲーテとベッティーナ・ブレンターノ

ランツフートに大学が 有った頃、ワイマールのゲーテとランツフートのベッティーナとの間を手紙が行ったり来たりしていました。ベッティーナは兄のクレメンス(後に詩人)と共に 義兄のサヴィニ教授の家に寄宿していました。ではいったいどういう訳で手紙がやりとりされることになったのでしょうか。

1772年法律の勉強を終えた23歳のゲーテはフランクフルトに帰る途中、コブレンツ に女流作家ゾフィー・ラロシュを訪ね、娘のマキシミリアーネ(愛称マクセ)を見初めます。しかしこれは実らず、マクセは失恋の痛手を慰めてくれたフランク フルト在住の5人の子持ちのイタリア人の豪商ブレンターノの後妻に納まって、ゲーテの前に現れ、ゲーテはブレンターノ家に出入りするようになります。時は 流れて1807年マクセの娘22歳のベッティーナはワイマールにゲーテを訪ねます。時にゲーテは58歳、ゲーテをベートーベンに引き合わせようというのが 訪問の目的でした。ベッティーナは時事問題に情熱的で、ゲーテとたびたび衝突し、1811年とうとう ゲーテと決裂します。同年、詩人アヒム・アルニムと結婚。ランツフートではサヴィニ教授の家に集まる学生のアイドルだったのでしょうか。ゲーテへの手紙の 中でも学生のことを紹介しています。この1810年にはサヴィニ教授はベルリンに移ったのでベッティーナ もおそらくランツフートを離れたのでしょう。彼女はランツフートが好きでそのことを アルニムへの手紙に書いています。1835年、ゲーテの死の3年後に「ゲーテと子供との手紙のやりとり」を発表。後に自由思想・社会主義思想を抱くように なります。 1859年ベルリンにて没、74歳。

当時まだ公子としてランツフート大学で勉強中だったルートヴィヒは反ナポレオン運動の中心で、ナポレオンが負けたとき乾杯した際にあまりにも強くぶっつけあったため底の一部が欠けてしまったガラスの杯"Pereat Glas"を、ベッティーナはルートヴィヒから貰って一生大事にしていましたが、おそらく遺言でしょう、それは彼女の死後ルートヴィヒ国王の手元に戻りま す。老ルートヴィヒは1859年(ベッティーナの亡くなった年)にもう一度このグラスでフランス皇帝(今度はナポレオンIII世)の没落を祝して「あれか ら50年経ち、もっと賢くなったが、心情は変わらない」と乾杯します。

ランツフートにはこの兄妹の名前の通りがあります。Clemens-Brentano-StrasseとBettinawegで、もちろん二つの通りはくっついてあります。                                   (ホームに戻る)