バイエルンがオーストリア領になりそうになったとき

 

バイエルンがオーストリア領になりそうになったのは2回あります。マックス・エマニュエル(1678-1724)はオーストリアとフランスとの間でスペイン遺産継承戦争が起こったときフランスの助けを得て自分の権力を確保しようと しましたが、フランスは英国とオーストリアに負け、バイエルンは自由を護ろうとして1705年から1706年オーストリアの銃弾の下に血にまみれました。 フランスに亡命していたマックス・エマニュエルはバイエルンをシチリアかネーデルランドと交換しようとハプスブルク家に持ちかけたのです。この提案はウイーン宮廷から無愛想に断られました。そ のあと、跡継ぎの選帝候カール・アルブレヒト (1726-1745) はカールVII世として皇帝位につきましたが、オーストリア継承戦争で新たに占領されることになり、忌まわしい服従の時代 (1742-1744)がバイエルンに続きます。ようやく息子マキシミリアンIII世ヨーゼフ (1745-1777)が状況を好転させ、科学、文芸を振興し、国 の借金を3,200万グルデンから1,500万グルデンに減らしました。しかし彼とともにヴィッテルスバッハ家の旧バイエルン系は絶え、家訓に従ってすべての ヴィッテルスバッハ家の所有物は再統合され、ツヴァイブリュッケン・ビルケンフェルトのカール・テオドア(1777-1799)のものとなりました。彼はいやいや支配者となり、またもやバイエルンをオーストリア領ネーデルランドと交換しようとしまし た。少なくとも下バイエルンは危うくオーストリア領になりかけたのです。しかしこれはフリードリヒ大王の介入によって防がれました。このときランツフートのプファルツ伯ヴィルヘルム フォン ビルケンフェルト・ガイゼンハウゼンのもとにはフリードリヒ大王からの急使が出入りをしました。ランツフートはフリードリヒ大王にとっては他ならぬご先祖様の町だったのです。                      (ホームに戻る)