ランツフートの絶頂期
1392年にバイエルンは部分公爵領バイエルン - ミュンヘン(ヨハンII世)、バイエルン - インゴルシュタット(シュテファンIII世)、バイエルン - ランツフート(フリードリヒ賢王)に分割されました。
フリードリヒ賢王はその才能と信望によってドイツ国王および皇帝、つまりプラハの病弱の国王ヴェンツェルの後継者としてもっとも有望な人物でした。 ところが彼が1393年12月4日の国王ヴェンツェルの顧問として業務騎行中にブドヴァイスの近くで突然に死んだため、すべての計画がフイになってしまい
ました。このあと三人の「裕福な」公爵のときにランツフートは絶頂期を迎えます。例えば金銀細工師、甲冑造り、これは欧州各地から注文が来るようになりメ トロポリタン博物館にも所有されています、製紙工場、鋳造工場、塩などの交易等。
ハインリヒ富候は叔父のシュテファンIII世の後見を受けてあとを継ぎました。彼の性格は荒く、バイエルン-インゴルシュタットの髭のルードヴィヒ とナイフで渡り合ったりしました。道路の舗装、町の通りにまで建っている建築の取り壊しや産業振興などの貢献をする一方、市民の特権を取り上げで反乱が起こり、そのあとの過酷な処分でルートヴィヒから「血の犬」と罵られています。
ルートヴィヒ富候も産業振興につとめまた既にランツフートに合併されたインゴルシュタットに大学を造りました。またイーザル川での砂金採りも奨励しました。ポーランドの国王の娘を息子ゲオルクに迎えて「ランツフートの結婚式」を1475年に行いました。
ゲオルク富候は二人の息子を得ましたが親より先に死んだので家訓に反して娘婿に継がせようとしたため遺産相続戦争がミュンヘンとの間に起こりました。結局ランツフート系はここで絶えてしまいます。 (ホームに戻る)