シュルテスの石

ランツフートに大学があったころ医学部の教授の一人にヨゼフ アウグスト・シュルテスという人がいました。もともと彼はクラコウ大学で化学と植物学を教えていましたが1808年にインスブルック(1805年にバイエルン領となっ た)で教壇に立ちました。両親がバイエルン出身だった彼はチロルで反乱の準備が進められているのを見過ごすことが出来ず、愛国者としての義務を果たしたため1809年4月反乱の勃発と同時に拘束されてハンガリーに移送され、同年9月に放免、10月に植物学の教授としてランツフート大学に迎えられました。植物の薬効を学ぶことは医学生にとっては必須でしたので、自然史、一般植物、薬用植物を教え、さらには医療科の主要講義の特殊治療も引き受 けました。学生には大変好評で、また外国でも高く評価される一方、当時流行のロマン主義、自然哲学および神学を徹底して排斥したため、大学の同僚との間に問題が絶えず、1826年にミュンヘンに大学が移される際にはランツフートに外科学校の校長として残されてしまいました。この人選は公子時代にランツフー トで学んだルートヴィヒI世が決定したとされています。シュルテスは失意の内に1836年亡くなりました。今日では彼の事を知っている人は少なくなりましたが、シュルテスの石だけは今も地図の上に載っています。これはドイツの一番南の、オーストリアに突き出たケーニッヒ湖の東岸の美しいバルトロメー教会のあるところから、東のヴァッツマンの麓の「氷の礼拝堂」に向かって歩いて数分のところにあり、23歳で死んだ娘のラウラとその友達のアリアーネのために岩に二人の碑を刻んだものです。ロマン主義を嫌った彼の名がこうしたセンチメンタルな形でしか残っていないのは何とも皮肉である、と伝記の著者は記していま す。 

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