ランツフートの魔女狩り

 

欧州で少なくとも50万人が殺されたという魔女狩りはランツフートではどうだったのでしょうか?様々な理由から魔法使いを追求する動きが欧州で古く からありましたが、バイエルンのルートヴィヒが国法を定めたとき呪術魔術の類には触れておらず、これはバイエルンの伝統となっていて、シュテファンI世、シュテファンIII世およびフリードリヒは1367年にきっぱりと教皇、皇帝、国王の指図は受けぬ、と宣言しています。1423年にローマで、1447年 にハイデルベルクで魔女の火炙りがありましたが、バイエルンでは事件はあっても魔女裁判にはなりませんでした。1474年ドミニコ僧ハインリヒ・インスティトリスに教皇の異端審問官としてドイツ語圏で組織的に魔女裁判を行う全権が与えられたとき一般からも宗教界からも抵抗がありました。そこで彼は 教皇イノセンスVIII世の教書によって身体および財産に対する刑罰を与える権限を得ました。理性のある僧正や司祭は抵抗を続けましたが、インスティトリスは 1487/88年に「5年で48人を火炙りにできた」ことを自慢げに書いています。バイエルン-ランツフートではブルクハウゼンで 1471、1472、1477、1478、1484、1493、1494年に、またディンゴルフィングで1483年に魔女裁判がありましたが、それぞれ一人も 犠牲になること無く、教会で懺悔する、という軽いものから土地追放までの罰が与えられ、ブラウナウ(1495)、ブルクハウゼン(1479)、ディンゴル フィング(1498)では無罪になり、後の二つでは原告が逆に罰せられました。結局公爵領バイエルンーランツフートの領主たちは幸いにも周りの領主たちと 違って長い間理性と明晰な頭脳をもって対応していたのです。

1568-1579年にトラウスニッツ城で歓楽に明け暮れていたヴィルヘルムV世が突然病気のせいか恐がりの宗教信者になり、バイエルンでも魔女追求を始めました。1590年にはインゴルシュタットの神学部に監視を置いたり、官吏を叱咤激励し、脅迫したりしました。1608年にマキシミリアンI世も 魔女裁判を進めるよう催促しています。にも関わらず、ランツフートではついに一件の裁判も行われませんでした。もちろん当時憎悪、中傷あるいはセンセー ショナルなこと出来事への欲望から裁判を見たがる程度の低い連中もいたでしょうが、この町の市長達や顧問官達は啓蒙された自由を貴重な財産として持ち続け ました。            (ホームに戻る)